随筆漫画家と呼ばれた『つげ義春』の作品に、『峠の犬』という短編があります。
あらすじを確認すると、次のような記載がありました。
『行商人の住まいの近くに五郎という犬がいたのですが、その犬は1年ほど前にどこからともなく現れ、近所で飼われていたのです。
行商人が旅から戻ると五郎はいなくなっていたのですが、その後行商人は、ある峠でその犬を見かけるのです。
犬はハチという別の名前で呼ばれていて、もともとそこで飼われていた犬だったのだけれど、ある時何処かに消えてしまい、1年後に戻って来たのだという、ストーリーだけを追えばそんな物語なのです。』
先月21日、家のトラが突然姿を消しました。
折しも寒の戻りの如く連日の氷雨続きも恨めしく、待つ以外にどうにもならなかったのですが、トラは2年前のちょうど今頃にも、6日間帰らなかった事があったのです。
諦めきっていた6日目に、突然自分の寝所にうずくまっているのに気付いた時の仰天と安堵いったら。
トラは、前の飼い猫であるリンが亡くなる少し前頃から縁の下に住み着いたらしく、顔見知りになってからはご飯をあげていたのです。
そもそも人間に飼われたことがない、一人で生きてきた猫のようで、毎日ご飯を貰っていようと、体を撫でさせるなどとんでもない。
それでも私が起きた足音を聞き分けて、廊下のカーテンを開けると同時に、毎朝必ず縁の下から顔を出すのでした。
リン亡き後、やがて一緒に暮らし始めて、やがて抱かせてくれるようにもなったのでしたが、とにかく外が好きで、どんな用事があるのか、篠突く雨でも平気で出て行くのです。
昼は殆ど家に居なかったりしながら、私が外に出たりすると、どこで見ているのやら、いつの間にか足元に居たりするので、そんなに遠くに行っているわけでもないのでしょう。
私がトラに気付かないでいると、いきなり頭突きしてきたり、ニャーと一言だけ声を掛けたりするのは、トラ精一杯の信頼表現なのでしょう。
ある時、夜の9時過ぎに、突然けたたましく大きな鳴き声を上げて戻って来た事がありました。
何事かと見れば、長い尻尾を引きずっているではありませんか。どんな事故に巻き込まれたのか、尻尾が根元から切られていました。
そうやって、どうにも自分で手に負えない事態になると助けを求めてくれて、5年のうちに4回も命拾いしていましたから、失踪6日を過ぎた時、今回ばかりはいよいよ絶望視せざるを得ませんでした。
どこかに紛れ込んだまま出られなくなってしまったとか、尿毒症が再発したとか、何れにせよどこかで息絶えたのならば、せめて最期を苦しまないで迎えられたようにと、仏壇に祈るしかなかったのです。
9日目の昼下がり、私が仕事場から出てふと目に入った布団の上に、茶色の塊が見えたような気がして咄嗟に見直せば、トラが布団の上にうずくまっているではありませんか。
駆け寄ると、ニャーと一声応えてくれました。
一回り痩せてはいましたが、身体は汚れてもいず、悪天候の中をいったいどこで8晩も過ごしていたのか、何を食べていたのか、毎日同じように前の家の垣根をくぐってゆくトラでしたから、もしかしたらと思い出したのが、『峠の犬』だったのです。
失踪9日の間に何があったのか、帰ってからのトラは、私を追い掛けでもしているかのようにくっついています。
私が風呂から上がるのを黙って板の間に待っていたり、外に出ても直ぐに戻って来るようになって、今もホットカーペットの上でぐっすりと眠ってくれているのです。
さて、昨年の3月から、床の間には1本の柳が立つ蹴鞠の庭が、未完のまま置かれていました。
白砂を敷きつめた公家屋敷の庭で、柳が1本青葉を風に靡かせているのですが、その前に七夕の日に蹴鞠する人形を置くための、縦40cm横45cmの土台なのです。
1000枚にも及ぶ青葉は、針金を貼り和紙を貼り、1枚ずつ切り出したものですが、5寸という人形からしたら、どうしても葉が大きくならざるを得ないのは仕方がないにしろ、どうにも気に入らなかったのです。
しかし、柳に使った緑の羽二重は、幣帛(今の上皇さんが伊勢神宮に奉納した生地)でもあり、もう一度別の生地で作り直すには惜しく、気力も湧かずに放ってあったのでした。
それが、先日『筍に雀』の平薬を完成させてから眺め直して見ると、枝を1本切って、その分の柳150枚ほどを植え直して密度を増したなら、何とかなるかもしれないと改作してみれば、決して芳しい出来にはならなかったものの、どうにかまとまって思えたのです。
しかし有職造花の庭として、柳1本きりではあまりに殺風景に芸がないように思えて、色々と考えを巡らせていると、以前作った蛙を思い出したのです。
岩を作って柳の根元に置き、その周りに何本かの草を植え付け、彩色し直した蛙を乗せれば、それなりに面白く出来ました。
旧暦7月7日といえば8月上旬、よりにもよって夏真っ盛りの炎天下に、何でまたあの装束で蹴鞠などするのだろうと思うのですが、茂った柳の日陰ならば蛙も干からびまいと、そのまま貼り付けてしまいました。
出来上がりを撮影してみれば、スマホのカメラは奥行きを写してくれませんから、柳の風情などおろか、貧相にしか見えません。
サッサと全体の写真撮りを断念してしまいましたから、蛙の画像だけ見て頂くことに致します。