朝ドラ『寅に翼』を見ていたら、天窓に雨が打ちつける場面が出てきたのです。
ドラマに重要でもないそんなシーンに、何故目を奪われたのかといえば、家の建て増しをする以前、壁を隔てれば便所という、最も奥にあった屋根裏部屋のような3畳間に、どうしたわけか天窓があったからなのです。
黒ずんだ木枠に、4枚の硝子の四方はすっかり白く曇って、真ん中だけ辛うじて透明に、屋根に掛かる隣家の柚子の枝やら、その上の空を望むことが出来たのでしたが、その部屋は昔、曾祖父が使っていたというのでした。
慶応元年生という曾祖父は敗戦の年の没でしたから、末っ子の私など言うまでもなく、姉兄の1人さえ会えた者は居ないのですが、写真で見る最晩年の曾祖父といったら、丸い眼鏡に長く伸ばした真っ白な顎髭、杖をついた背中が少し丸まっていながら、とても厳しい人に見えました。
曾祖父と、私の祖父になる娘婿とは折り合いが悪く、結局母屋の脇に曾祖父専用の簡素な家を建て、そこで暮らすようになるまで、その3畳を自分の部屋にしていたというのです。
江戸時代中頃からの農家でありながら、田畑は曾祖母らがして曾祖父はせず、時計の修理や鉱石ラジオ造りをしながら、食事やらの家事を受け持っていたという興味深い人で、『主夫』を先駆けた、多分に時代にそぐわない人物だったのでしょうけれど、何より特筆すべきなのは、明治20年代からのロシア正教徒だったという事でしょう。
それ故に私の家の墓地には、十字架を刻んだ墓石が3つあるのですが、早くに亡くなったという両親のために、曾祖父は御茶ノ水のニコライ堂から聖職者を呼んで死後洗礼をした時には、その儀式を見物しようと近隣から野次馬が押し寄せたのだと、村の古老から聞いたことがあるのです。
思いつくままに書く『近頃のこと』で、前に何を書いたのか忘れていますから、或いは既に書いているのかもしれませんが、十字架が刻まれた墓石は、一際大きな平たい自然石に両親の洗礼名を刻んだ一つと、後の2つは孫のものです。
幼児だからか白緑の小さな墓石で、長い間そこにどんな戒名が刻まれているのやら、読み取れないままでいたのでしたが、ある時早朝の墓参を済ませての帰り際、ふと振り向いてみると、墓石に当たるのが朝日だったせいなのでしょう、2つの十字架が白く浮かび上がっていたのには驚きました。
小学校にも上がらない前に死んだ孫2人を、曾祖父はロシア正教で葬っていたのでした。
さて、曾祖父が何故に天窓などつけたのか、今となっては知る由もありませんが、単に明り取りとばかりは思えない独特の雰囲気が漂っていて、それが子供心に強く印象を植え付けたのでしょう、今でも朝ドラの何げないシーンにすら、咄嗟に反応するのです。
小学生の頃に初めて読んだ、石森延男著『コタンの口笛』で、フィリップというアイヌの住む部屋の東の小窓に、似つかわしくもない青いカーテンが下がっていたのです。
ナターシャという、若くして亡くなった奥さんが身につけていたマフラーなのだとか、どうしたわけか小学生の私は、その東の小窓に、曾祖父の天窓と同じ印象を持ってしまったのです。
記憶が確かではないので、その部分を拾い読みしてみると、フィリップもまた敬虔なクリスチャンで、弟の家に間借りした住まいは、3畳間なのでした。
母の死に、改葬を余儀なくされた墓地の掘り返しによって、いったいどこまで掘れば全ての骨を集められるのかと業者を嘆かせるほど、沢山の骨が出たのでしたが、思い掛けない所から出て来たという頭蓋骨を見せられ、これが一緒に出て来たのだけれどと差し出されたのは、丸い眼鏡だったのです。
曾祖父でした。
私は、曾祖父に会えたのです。
晩年、何かといえば『人間というものは...』と嘆いていた曾祖父だったそうですが、それも含めて、物造りを天職にする私は、最も曾祖父を受け継いで思えるのです。
親や孫をロシア正教で葬りながら、曾祖父は仏教で葬られましたが、その戒名は『猷岸院耶誉道幾居士』といい、耶誉(耶蘇の誉)とあるのです。当時の坊さんは、教養の持ち主だったのでしょう。
ともかくこれからも、いつどこで天窓に接しようと、私は曾祖父の天窓を思い出し続けるのだろうと思うのです。