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■ 近頃のこと

2024/08/28

秋色已到来

昨夜早めに床についたら、チリチリチリチリと、何種類もの秋の虫の声が、庭にヴェールを張り巡らせたように響いているのに気付かされたのです。

秋の虫といわれますが、夜の庭の至る所に溢れんばかりに湧き立つ虫の声は、ふと風や光が真夏のそれとは変わったと思わせる晩夏から、ほんの秋口迄の事で、本格的に秋を体感する頃には、とうに消えてしまっているものです。

『海の幸』や『わだつみのいろこの宮』などで著名な、僅かに29歳で極貧のうちに死んだ天才画家青木繁が、明治35年20歳の頃に紅葉の妙義山にスケッチ旅行をした折、『秋の夜』と題したスケッチに添えて『こほろぎに更くる夜ことをつゝれさす旅に五とせめ今二十一』と詠ったのがありましたが、秋の夜長などという季節に鳴く虫など、コオロギくらいのものなのです。

19歳の秋、いよいよ夏目漱石に心酔した私は、とりわけ『野分』に体の震えが止まらないような感動と衝撃を受けてしまい、青木繁に端を発した明治時代への憧憬ばかり無闇に深めて、『秋の夜は書物を読みて過ごすべし洋燈の下に肺を病むべし』などと詠んでいた始末。

友人と会って、何だかしたたかに酔っ払ってしまい、池袋駅から夜道を何キロも歩いたことがあったのですが、その千鳥足の様を、
『私の足は地に浮きて 離れもせずば彷徨いて
塀や塀やと手を止めつ といと押しては戻りけり
私の足は地に浮きて 浮きて迷いて頼りなく
寄る辺無きにぞ 哀しかりけり』
などと詠じたのも、明治かぶれの『新体詩』気取りでだったという滑稽さ。

しかし今になって思えば、それもこれも皆、秋色に弄ばされての事だったのかもしれません。

さて、王朝時代には虫籠を携えて、尾花やら葛やらの生い茂る野に出で立ち、秋の虫を採る『虫選び』という秋ならではの野遊びがありましたが、それが絵のモチーフとして幾つも見られます。

私がコレクションする六番親王の後ろに、2尺屏風を立てようとあれこれ算段しているうち、小御所の襖絵に巡り合ってすっかり惹かれてしまった私は、その写しで雛屏風を作仕立てようと、意を決して生まれて初めての日本画に挑んだのでしたが、その初っ端が『虫選び』だったのです。

とにかく初めての岩絵具の事で、試行錯誤の繰り返しに、どんどん厚塗りになってしまったりしたのですが、あまりに楽しくて、食事の支度なども疎ましく、1日13時間も描き続けた事もありました。

上下の比率から1枚の襖絵を、何とか六曲の雛屏風の4面に当て嵌め、『虫選び』→『嵐山大井川の筏』→『須磨の浦』と描き進めるごとに、絵の具の扱いにも慣れて来ますから、どんどん日本画の魅力に嵌まってしまい、それでもう一双残っていた金屏風の半双だけに『松陰の避暑』まで描いて、一双半18面の雛屏風に仕立てたのでした。

秋口から描き始めて、『松陰の避暑』に至った頃にはすっかり寒くなってしまい、奥の八畳に石油ストーブを焚き、テーブルの上に屏風を開いて描いていたのですが、当時の飼い猫のミーが、ストーブの前に敷いた座布団に寝息を立てていたものです。

ミーはトイレに行きたくなると、襖の手前に座って振り返るのです。それで出してあげてからまた襖を閉めるのですが、しばらくすると襖がトントン叩かれるのです。私が襖を開けると、用を足したミーが黙って入ってきて、またストーブの前で眠るのです。本当に賢い猫でした。

先日、二世猪山の七番練頭で御引き直衣立像を作られた方に、雛飾りに屏風がいかに重要か知ってほしい気持ちもあり、また、丸平作立像の真価を伝えたい思いで、押し付けるように、その屏風をお貸ししたのです。

送るに際して、何年ぶりかでその屏風をしみじみ見れば、思いがけないほど丁寧に描いてありました。元絵があるのですから、丁寧に描いて当たり前なのですが、初めての日本画に少なくとも真摯に取り組んでいて、拙いながらも好意的に見ることが出来た水準には、やはり安堵したのでした。

御引き直衣というのは、基本的に天皇の普段着ですから、背景とするのに小御所の襖絵は、天皇の日常を感じさせるのに相応しいのでしょう、格別に馴染んで見えました。

今年も未だ異常な暑さのままですが、何のかのいっても、遅くなった夜明に早くなった日暮れを目の当たりにすると、先は見えたように思えます。

扇風機無しにはいられなくても、どことなしに夜の静寂(しじま)が迫る思いがするのは、やはり秋の訪れということなのでしょう。

強い雨に打たれた女郎花が、斜めになって玄関への道を塞いでいます。

それもまた、紛れもない秋の風情に思うのです。

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