明治政府は、何でもかでも西洋に追いつこうと、あたかも床にぶちまけたペンキの上を転がるように、なりふり構わず西洋式に染まろうと躍起になっていたのでしょう。
その巻き添えで、旧暦でなかったら季節の合わない日本古来の行事の日程までを、気候が1ヶ月も違う新暦に改めてしまいました。
ですから、新暦3月3日の雛の節句に桃の花など咲きませんし、旧暦5月5日の端午の節句といったら、新暦ならば6月初旬から中旬の梅雨真最中の事で、高い湿度がひどい衛生環境を更に悪化させ、疫病の蔓延を招いたりの不安を拭えない時期だったからこそ、邪気祓いとして菖蒲やら薬玉が登場する必然性があったのです。
五月晴れなどと言って、明るく晴れ渡った空に矢車が光り、五色の吹き流しや鯉のぼりの翻るのが最も似合う新暦5月5日といったら、正反対も正反対。本来の意味が成り立つはずもありません。
旧暦9月9日、重陽節(ちょうようせつ)と呼ばれる菊の節句もまた然りで、新暦の9月9日など、今や残暑どころか夏真っ盛りのままなのですから、菊の花など影も形もない季節でしかありません。
重陽節は、かつての宮中だと五節句の中で最も盛んな催しだったのだそうですが、今では菊の節句があること自体、全くと言って良いほど、受け継がれても伝えられてもいないのです。
さて重陽節には、菊の被せ綿(きくのきせわた)という風習がありましたが、重陽節の前夜、庭の小菊に真綿を被せて香りと夜露を宿らせ、重陽節の朝にそれで身体を拭って邪気祓いとしたのです。
その被せ綿の風習が、恐らく江戸期になってからでしょうけれど、単に儀式化してしまい、大きな花を1輪ずつ咲かせた玉菊を根元から切り取り、御殿の欄干に結び付けた花の上に、こともあろうに黄色や赤に着色して丸めた真綿を置いた図が、下手くそな絵巻に残されているのです。
今、多くの料理屋さんが、それを重陽節の料理飾りにしているのを目にしますし、毎年今の季節になると菊の被せ綿作りの依頼が飛び込んで来たりもするのですが、それでは菊の被せ綿本来の目的や、何よりも重陽節ならではの情緒など、全く伺い知ることが出来ません。
ですから、私はどうしてもそれが悪趣味としか思えず、およそ重陽節の飾りとして相応しくも思えないものですから、必ずお断りするのです。
そうした観点からすれば、重陽節の代表的な有職造花でありながら、完全に『茱萸』を春のグミと取り違えたままでいる『茱萸嚢(ぐみぶくろ)』も、本来の『呉茱萸(ごしゅゆ)』での再現は、一度きりであろうがしておくべき事に思うのです。
それは私に容易な事ですから、きっと私の任務なのかもしれません。
さて、四季折々の花桶飾りを注文してくださる方から、重陽の花桶として小菊のご依頼がありました。
ならばこそと、小菊は、紫、白、赤、黄、緑という陰陽道の五色を踏んだのです。
葉色を緑にして、残り4色を花色にするのは、以前にもしたことで手慣れていますから、今回は赤や紫を殊更きつい色に染めて組み合わせてみれば、これこそ紛れもない有職造花ではないかと思うものに出来上がりました。
そしてまた、アートフラワーとの根本的な違いを、これほど明確に見せられる例もないように思うのです。
今回はゆっくりと構えたのも幸いして、各色15輪ずつを2つに分けた10株(黄色は2種類)を散らしてまとめられたのですが、生地に丹後縮緬変わり織を使ったからでしょう、威厳らしきものまで現れた出来栄えには、至極満足しているのです。
今年の旧暦9月9日は、今月11日とか。
紫苑はとっくに色を失い始めていても、庭の小菊が咲き始めるのは、今年はまだ少し先の様子です。
ならばと、固い蕾と瑞々しい若葉に真綿を被せ、夜露の宿りを待つというのも、掛け替えのない重陽節の風情かと思います。