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■ 近頃のこと

2025/06/30

蔦重頼りの日々

寄る年波の必然ならば受け入れてよいのでしょうし、受け入れなければならないのでしょうけれど、未だそれほどの高齢でもないので、時に途方に暮れてしまうのですが、この頃とみに何でも忘れてしまいます。
 
何しろ、煮物をするにも、風呂にお湯を張るにも、タイマーなしには危なくて居られませんし、そのくらいですから、LINEとかメールでも、その人にどこまで伝えていたとか記憶から消え失せていて、同じことを再度報告していたり、どこまで伝えていたのだろうかと、以前のものを読み返してみれば、記されていることが丸ごと記憶から抜け落ちていたりすることすらあるのです。

この『近頃のこと』でも、以前のを振り返ると、重複して書かれていることもあり、こう思ったとか、漠然とした書き方のものなど、それが何を指したものか分からなくなっていたりして、あたかも他人のエッセイを読んでいるようなのには、つくづく情けなくなってしまいます。

何しろ、年中が夏休みのようなものですから、カレンダーがあろうと今日が何日か分からないのに、何曜日だなんて予測もつかず、仕方なく毎日寝る前とかに、過ぎた日を赤いマジックペンで消して、生活の合間合間にそれを確認している有様なのです。

そんなですから、約束とか予定を、それが決まった時点でカレンダーに書き込むのですが、そもそも私は、時に発達障害ではないかと思うほど、約束というのが苦手なのです。

昔、G.シミオナートという大歌手が引退する時に、何年後の何月何日にはどこにいて、何を歌うのかも決まっているというような生活から解放されたかったと言われたのです。

それは、私が約束など交わしたくないとの理由にも通じて思えるのですが、約束や予約の当日に、もっと優先させたい出来事に恵まれた場合、互いに過去に交わした約束によって、それが犠牲にされる事になったり、不本意な我慢を強いる事になっては、だだでさえ残りがおぼつかなくなった人生を邪魔されたも同じこと...とか、もっともらしいことを並べたところで、所詮は気ままを謳歌させてほしいというだけのことなのです。

そんな私が、決まりきったことを待ち遠しく思い、その曜日を率先して記憶しながら、心待ちする今でいるのです。

何とまぁ、NHKの大河ドラマ『べらぼう』の放送される日曜日がそれで、そもそも大河ドラマなど殆ど見たことが無かったのに、第1回から釘付けになるなど、想像だにしませんでした。

行燈による室内の明度、度肝を抜かされる性表現などなど、溢れ出るリアリティと配役の妙に感嘆し続けているのですが、そのきっかけは、吉原の女郎をはじめとした結髪なのでした。

浮世絵に見る本来の髪型の造形的復元ばかりか、丁髷(ちょんまげ)の現実味といったら、生え際からの撫で付け方や日常生活によるたわみや乱ればかりか、主役など癖毛の丁髷まで再現されて、長年の疑問と不満が一気に解消されたのです。

しかし、狂歌が登場した頃の吉原に花ひらく文芸と洒落の世界で『屁、屁、屁』と輪になって踊る馬鹿騒ぎとかがリアルに繰り広げられるほど、私はその『ノリ』とか『体臭』とかいうものに目を背けてしまうのです。

感性も表現の手段も共感がありませんし、広く深い教養に根ざされた洒落も、その完成度の高さを認めながら、私にはそれが受け入れられないのです。

勿論、御所を抱えた地をひたすら贔屓の引き倒しするわけでもなく、その住人特有の口をまともに受けるほどの慢心も持たないながら、『大木さん、前世でも何でも、いつかは都(みやこ)に生まれてて、こっちの血ィを引いてはる思うわ。』という言葉に、どうやらそうらしいのだと、有職造花の道を進みながら、何度も思い当たって来たのを、蔦重によって裏付けられた思いでいるのです。

昭和5年の貰い火で、折からの強風にあっという間に火に包まれた母屋から、命からがら祖母が持ち出したのだという3つの大きな位牌のうち、最も古いのに天明の没年が記されていて、蔦重が出版していた時期と重なるのも奇遇。きっと、先祖も浅間山の灰を掃いたのでしょう。

さて、今年は昨年にも増して制作依頼が減って寂しい限りですが、一輪挿しとかの小品の出来はすこぶる芳しいのです。

最も新しい制作依頼は、朝顔による壁飾りをというものでしたが、花の色のご希望が青だと言われるので、以前から考えていた笹竹との組み合わせで作ってみました。

朝顔

百合

南天

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